はじめに 食物の歴史は、人以前から始まっていると言ってもさしつかえないほどに、いろいろの歴史の中でも人の生活とともに最も長(zhǎng)く、そして最も密接な関係を持って、今日まで続いてきた[i]。 飲食は人間の生存に対して大事な基礎(chǔ)である。人類があれば飲食があり、飲食あれば飲食文化がある。だからこそ、飲食文化は人間とともに生存することが言える[i]。しかし、文化は相互に影響している。世界中、多くの國(guó)家は中國(guó)の飲食文化から影響を受ける。一番影響を受けた國(guó)家は中國(guó)と一衣帯水の隣國(guó)としての日本である。 中日両國(guó)文化の交流はずいぶん長(zhǎng)い歴史を持っている。とりわけ、中國(guó)の隋朝と唐朝には、非常に緊密な交流を持っている。日本は極めて大きな中國(guó)文化を強(qiáng)い胃にこなしきた。それから、自國(guó)の獨(dú)立した食文化を形成した。七世紀(jì)から九世紀(jì)にかけて、日本から大量の遣唐使、學(xué)問(wèn)僧や留學(xué)生などと一緒に中國(guó)に派遣した。彼らは日本に戻ったとき、中國(guó)人一部の生活習(xí)慣や食物なども日本に持ち帰った。 十世紀(jì)を皮切りに、大量な中國(guó)の商人や僧侶?移民などが海を渡って日本へ行った、と同時(shí)に、日本側(cè)も中國(guó)の仏教の経典を習(xí)うためにたくさんの僧侶が中國(guó)に來(lái)た。だから、いろいろな中國(guó)の農(nóng)作物と食品が次々と日本に伝えられた[i]。一番早く日本に伝た農(nóng)作物は米である。約二千五百年前のことである。中國(guó)の長(zhǎng)江下流の地區(qū)から日本の九州に伝えられた。日本の飛鳥(niǎo)時(shí)代と奈良時(shí)代に、日本に伝た農(nóng)作物は蕎麥、人參、エンドウなどである。日本の室町時(shí)代から江戸時(shí)代にかけて、日本に伝えられたのはサツマイモ、トウモロコシ、フジ豆、白菜、唐辛子、冬瓜などである。それと同時(shí)に、中國(guó)のいろいろな食品も日本に伝えられた。しかし、何千年の変化を経て、中國(guó)と日本は特色が別々の料理を形成した。中國(guó)には、「一つの場(chǎng)所の土と水は一つの場(chǎng)所の人を育て」という諺がある。一口で言えば、中國(guó)料理といっても、地方ごとに特徴のある料理多くある。たとえば、江蘇では蘇州、揚(yáng)州、南京、鎮(zhèn)江の四大料理がある。名物料理には鶏湯煮幹糸(千切り干し豆腐と鶏肉の煮込み)、蟹粉獅子頭(蟹味噌の肉団子煮込み)などが挙がられる[i]。日本側(cè)は大體四大島に分かれて、飲食習(xí)慣も別々である。地方の風(fēng)味があるけど、日本料理と言うと、壽司や刺身や天婦羅などのようなもの頭に沸いてくる。 油の控えたカロリーの低い日本料理はよく「水料理」といわれる。中華料理、というと、油をどっといれた中華鍋から時(shí)々炎をあげながら豪快に調(diào)理する、というイメージがある。だから、中華料理はよく「油料理」といわれる。 私は中國(guó)の「油料理」と日本の「水料理」を中心に、中日両國(guó)の食文化を比較したい。
第一節(jié) 中日両國(guó)の主食
採(cǎi)集、狩猟、漁獲は人類の生存手段として長(zhǎng)い歴史を持っている。それに長(zhǎng)い間に持続していた。そのとき、99%以上の食べ物は採(cǎi)集、狩猟、漁獲のような手段で得られた。中國(guó)と日本は一衣帯水の隣國(guó)としても、別の國(guó)は別の國(guó)である。両國(guó)の自然環(huán)境は違う、それに文明開(kāi)化の年代も違う。だから、採(cǎi)集、狩猟、漁獲などのような同じ手段を使うにしても、別の特色がある。例えば、中國(guó)は大陸の國(guó)だから、採(cǎi)集、狩猟のような手段を通じて食物を得るのはもっとたやすい。しかし、日本は島國(guó)である。中國(guó)と比べると、漁獲で食物を得るのはもっとたやすくなる[i]。 中國(guó)人と日本人の食生活においてお米は昔からの主食である。お米は両國(guó)の飲食文化の中にかなり重要な地位を占めている。お米は炭水化物としてエネルギーになるのは周知のことだが、実はお米に多種の栄養(yǎng)が詰まっている。稲作文化の伝播についてもたくさんの見(jiàn)解がある。日本國(guó)內(nèi)には一つおもしろい神話が伝わっている。狐が中國(guó)から稲穂を一つ盜み、それを竹棒の中に隠して日本にもたらしたという伝説である[i]。 中國(guó)人は日本人より主食を重んじる。中國(guó)は昔から農(nóng)業(yè)大國(guó)である。中國(guó)人はずっと殻類を主とする。主食は五殻である。副食は野菜で、それに少し肉を加えて食べる。何千年來(lái)ずっとそうである。この風(fēng)俗習(xí)慣を形成した主な原因は中國(guó)大部分の地區(qū)で農(nóng)業(yè)生産を主としての経済生産方式である。日本は島國(guó)だから、副食を得るのはもっとやすいである。海から魚(yú)類にしても、海藻にしても、全部食べられる。それに、中國(guó)陸地の面積は日本よりずいぶん大きい。日本のような恵まれた自然條件がないから、中國(guó)はもっと主食を重んじる。考えつく限りいろいろな菓子を作り出して、副食の不足を補(bǔ)う。例えば、中國(guó)の餃子、粥、チエンピン、シャオピンなどのようなものである。こんなものは主食としてもいい、副食としてもいい。日本は中國(guó)と比べると、このような食べ物は少ない。 日本の周辺は全て海であり、島國(guó)である。そのため他國(guó)と陸上において接していない。日本の東側(cè)および南側(cè)が太平洋、西北側(cè)が日本海、西側(cè)が東ナシ海、北東側(cè)がオホーツク海である。本州と四國(guó)に挾まれた海域は瀬戸內(nèi)海と呼ばれている。日本列島の南側(cè)を黒潮(日本海流)と呼ばれる暖かい海流が流れている。北からやってくる親潮(千島海流)が三陸沖から常磐沖でぶつかって好漁場(chǎng)をつくっている。だから日本人はよく魚(yú)を食べる。
第二節(jié):中日における食の地位 「民は食を以って天と為す」という諺が示しているとおり、中國(guó)人は昔から飲食を重んじる。三千年前、周朝の記録には調(diào)理方法についての記載がある。それだけでなく、たくさん飲食治療についても記されている。當(dāng)時(shí)、王宮の中で飲食を管理する専門(mén)の擔(dān)當(dāng)者があった。中國(guó)の歴史上、劉安という君主がある。彼は一つの國(guó)家の君主だったけど、しょっちゅう自分自身で料理をつくる、時(shí)には部下に調(diào)理法を伝授することもあった。豆腐が彼によって発明されたと言い伝えられている。中國(guó)「五経」の一つ「禮記」の中で、禮は飲食から出されるという言葉がある。古代に神仏や祖先を祭るような活動(dòng)で食物とは分かれられなかった。祭りで一番重要なのは祭祀の供え物である。それは牛、羊、豚のようなものを指す[i]。「詩(shī)経」、「尚書(shū)」などの書(shū)籍に、われわれにいろいろ先秦時(shí)代の飲食現(xiàn)象を再現(xiàn)する。その中に酒、酢、醤油などのような食品に関する紹介もある。さらには栄養(yǎng)士や食療養(yǎng)生士についての関係記載もあった。湖南の馬王堆という漢代の墓の中から2000年前の帛書(shū)が出土した。その中に は古代の君主と大臣の飲食生活と養(yǎng)生方法に関する問(wèn)答を記されているから、「十問(wèn)」という。『論語(yǔ)』の中に、飲食の內(nèi)容に觸れていたところは41回ある[i]。ある言葉は今でも使う。昔から、飲食文化は中國(guó)文化の中で最も重要な內(nèi)容の一つであることがわかる。中國(guó)語(yǔ)で「食べる」という意味の漢字の使う範(fàn)囲もすごく広い。中國(guó)人は「食べる」を重視すると言うのに対して、日本人は「見(jiàn)る」を重視する。 日本人は飲食についての見(jiàn)方は中國(guó)人とはぜんぜん違う。とくに古代のとき、日本に飲食についての文獻(xiàn)や資料などは少なかった。ここから見(jiàn)れば、歴史上の日本は飲食文化を重視しなかったか、重視したかったとしてもできなかった。昔、日本人は一人の地位、教養(yǎng)、人柄を判斷すれば、あの人の服裝、乗り物、住宅などを見(jiàn)る。あの人の飲食については、ぜんぜん気にならない。さらには、ある人は飲食を話題とすると、非常に恥ずべき行為だと思われる[i]。日本の徳川時(shí)代は武士が権力を握る時(shí)代である。あの時(shí)代の人は何をしても速くしなさいという教育を受ける。歩いても速く、食べても速く。男ならば、食べ物をよく考えてはいけない。こんな狀況は近代にからなってだんだん変わる。実際の食べ物というより、日本人はもっと重視するのは食物を盛る用の皿のような外在のものである。
第三節(jié):中國(guó)の「油料理」の形成 中國(guó)料理と言うと、強(qiáng)火を用いる炒め物が目たち、油を多用する料理が多いという傾向がある。まさか中國(guó)人は生まれながら油料理が好きなようである。 中國(guó)には、近海や湖や川などがたくさんあるけど、陸地の面積と比べるとずいぶん小さい。新鮮な料理が好きだが、自然の條件に恵まれない。中國(guó)の古代には、刺身のような生肉、生魚(yú)の料理もよく食べたという[i]。中國(guó)の周の時(shí)代に、刺身を食べる記載があった。たくさんの名人は刺身が大好きであった。三國(guó)時(shí)代の曹植とか、隋の第二代黃帝煬帝とか、それに詩(shī)仙と稱される李白とか、みんな刺身について優(yōu)秀な作品を殘した。刺身についての詩(shī)の中で、敘述は一番詳しいのは李白の「魯中都有小吏逢七朗以斗酒雙魚(yú)贈(zèng)余於逆旅因鱠魚(yú)飲酒留詩(shī)而去る」である。ある年、李白は末の息子を連れて、中都という所を通った。ある逢七朗という小吏はその地方で醸造した酒と新鮮な魚(yú)を持ち、うれしそうに詩(shī)人に訪問(wèn)した。李白は大感動(dòng)であった。自ら刺身を作り出した。それに、分かれるとき、この詩(shī)を作って、小吏に贈(zèng)った。 しかし、こんな料理は広範(fàn)囲に発展できなかった。今日ではただある沿海地域にこんな習(xí)慣が殘っている。こんな料理は広範(fàn)囲に発展できない一番重要な原因は自然條件である。川や海から得られるシーフードや魚(yú)類などは長(zhǎng)い時(shí)間に鮮度を保つことは難しい。內(nèi)陸の人々に食べられるためには、陰干しなくてはいけない。しかし、こうすれば、食材の鮮度は大いに下がる。人は美味しく賞味するためには、鮮度を戻したい。だから、いろいろな香料、調(diào)味料を入れて、それに複雑かつ時(shí)間がかかる調(diào)理法を通して、人々の味覚を満足させる。だんだん、いろいろな調(diào)理技術(shù)が生み出される。例えば、油で炒めるとか、油で揚(yáng)げるなどである。これらの方法を通して、作り出した料理は、においもいいし、味もいいし、人々の味覚に満足できる料理である。自然に、中國(guó)では「油料理」を形成した。これも中華料理最大の特色である。 そのほかに、中國(guó)人は深く中醫(yī)學(xué)に影響された。中醫(yī)學(xué)では、人間は自然の環(huán)境変化の影響のもとで生存している有機(jī)的な統(tǒng)一體であり、そのため、変化に適応できず生體の陰陽(yáng)のバランスを崩すと病気になると考えられてきた。毎日の食生活を通して生體の陰陽(yáng)のバランスをとることは食療といわれる。食療とは、中醫(yī)學(xué)理論に基づいて疾病の予防?病気の回復(fù)、そして健康を保つための美味しい料理を作って食べる。中醫(yī)學(xué)は暖かい料理のほうがいいと唱える。冷たいものを食べれば、病気になりやすいという理由をつけている。それに、油料理と言うと、暖かいの方がもっと美味しくて、消化しやすいである。[i]だから、中國(guó)人は油料理をよく受け入れる。 歴史上の中國(guó)人は非常に勇気を持って、何でも食べていた。俗に「広東人は二足なら親以外、四足なら機(jī)と椅子以外、走るものなら自動(dòng)車(chē)以外、泳ぐものなら潛水艦以外、空を飛ぶものなら飛行機(jī)以外なんでも食ってしまう」と言われるように、その食材は多種多様にわたる。調(diào)理法についても同様で、炒め方とっても干炒、滑炒、清炒、生炒、爆炒など技法や時(shí)間の長(zhǎng)短により10種類近くあり、それぞれの炒め方を冠した料理ができあがる。さらにこれに用いる調(diào)味料で変化を加えると、青菜の炒め物だけでも100種類を超える料理ができあがってしまう。こうしたことから理論上で言えば、1人の中國(guó)料理人が作れる料理の數(shù)は、何萬(wàn)種類にも及ぶ。しかし、どの方法にしても油とは離れられない。中國(guó)には、炒め料理はたくさんあるが、日本には天麩羅のような油で揚(yáng)げる料理があるけど、このような料理はあまりにも少ない。
第四節(jié):日本の「水料理」の形成 日本料理と言うと、最初に考え出すのは刺身や壽司のような料理である。日本料理の最大の特色は新鮮さだと思う。 日本は資源の少ない國(guó)である。境を接する隣國(guó)さえもない。だから、日本人の危機(jī)意識(shí)は重い。何かの災(zāi)害に遭われると、自民族は絶滅に瀕するということを恐れる。だから、中國(guó)の文化は日本に伝わったら、日本式の理解が誕生する。例えば「油斷大敵」という表現(xiàn)はそうである。日本人の理解では、油がなくなるとは敵に臨むことにつながる?だから、中國(guó)人のようなよく油を使って、料理を作るということはだめである。明日の安全のため、できるだけ油を使わない。それに、17世紀(jì)前に、日本の経済発展のレベルは高くではないし、海外貿(mào)易も十分ではない。日本で、油の生産量は少ない。砂糖のような香辛料も珍しいものだ。自然に、日本料理は油のような調(diào)味料の使いの場(chǎng)合は少なくなった。[i]だんだんあっさりした料理を形成した。 日本料理とは、日本でなじみの深い食材を用い、日本風(fēng)土で獨(dú)自に発達(dá)した料理をいう。 普通日本料理というと、1汁3菜というイメージがある。一汁とはお吸い物、三菜とは刺身?焼き物?煮物のことを指す。そして日本料理の正式な料理は本膳料理と呼ばれる。その組み合わせの特徴は、穀物の米を主食に、魚(yú)や大豆などの蛋白源のおかずとなる主菜、そして煮物など野菜料理の副菜が添えられていることである。 中國(guó)人にして見(jiàn)れば、日本料理はあまりにも簡(jiǎn)単で、中國(guó)料理の四大料理とは比べ物にならないものであり、しかも、西洋料理と比べてもあまり人の食欲を引き付けるものではない。しかし、日本の伝統(tǒng)的な食生活は健康的で豊かな食生活とされている。一般的に米をはじめとする穀物、野菜、豆類、果物などの農(nóng)作物、魚(yú)介類や海藻といった海産物、鳥(niǎo)類の肉などがよく使われる。仏教の影響ゆえに獣肉の利用は比較的発達(dá)しておらず、乳製品をほとんど使わず、これらのタンパク源の代用として大豆加工品が好まれる、といった特徴をもつ。特に、海産物を生食すること、海藻を好んで食べることは海外ではあまり見(jiàn)られず、日本料理の大きな特徴といえる。これらは大切な栄養(yǎng)素を多く含んでおり、健康維持に大きく役立つのである。 つぎは日本料理の例を挙げて説明しよう。
4?1 壽司
「すし」には『鮨?鮓?壽司』がありますが、鮨と鮓はもともと二千年以上も前からあった中國(guó)の漢字である。「すし」の始まりは、はっきりは解らないけどおそらく東南アジアかどこかの山中の民族が川魚(yú)の保存に穀物を炊いたものを漬け込み、自然発酵させたものが、始まりだといわれている。これは日本のフナ壽司の元祖ともいわれる。「鮨」のつくりである「旨」にはものを熟成させる意味があり、「鮓」のつくりの「乍」は、ものを薄くはぐ意味があるらしい。『壽司』という漢字は「壽を司る」で、縁起がいいものとしてその名を語(yǔ)っている。 「すし」と呼ばれる魚(yú)介類の漬け物が大陸から渡ってきたのかもしれない。養(yǎng)老二年(西暦718年)、「養(yǎng)老律令」のなかに『鮨?鮓』の漢字が登場(chǎng)する。それらはおそらく、魚(yú)介の漬け物と思われる。それが、奈良時(shí)代には、「熟れずし」のようなもので、その後は「飯すし」、現(xiàn)在の関西の鯖の棒すしみたいなもの。「コケラずし」は箱ずしの原型、現(xiàn)在も「ケラずし」として大阪に名を殘す。「箱すし」は関西の「押し壽司」の原型である。ここで、注目すべきは、関西と言う言葉がたくさん出てくる。 握りずしのルーツは一八〇〇年前半ごろ、江戸のある屋臺(tái)の職人の誰(shuí)かがお米の上に押し壽司の材料を切り付けてのせ、即席のすしをつくったと言うのが始まりと言われている。しかし、當(dāng)時(shí)の「握りずし」は「押し壽司」と同様、お米の味が重要で甘辛く味付けた椎茸や海苔を加えたりおボロをのせたりして味を補(bǔ)っていたそれから、大きさもお握りみたいに大きくて、現(xiàn)在のものとは大違いだったらしい。もちろん、材料自體の違いは言うまでもない、「江戸前ずし」の誕生によりその姿を変えるとともに全國(guó)に広がっていったが、それはすでに戦後のことである。「握りずし」は、江戸以外ではまだまだそんなに昔からあるものではないということになる。「江戸前の握りずし」は、気が短い、「江戸っ子」が作り上げたいわゆる「東京の郷土料理」と言っても過(guò)言ではないだろう。
4?2 米 米は古來(lái)より日本人の主食として食生活に欠かせないものである。米は日本全國(guó)各地で栽培されている稲作は日本においては、縄文時(shí)代中期から行われ始めた。縄文時(shí)代中期に、中國(guó)から琉球を経たて九州南部に伝わり、その後九州北部、中國(guó)、四國(guó)へと伝わったという説があり。大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時(shí)代晩期から彌生時(shí)代早期にかけてで、各地に水田の遺構(gòu)が存在する。日本人の食生活で、最も大切だと考えられている食べ物は、なんといってもご飯である。「ご飯」は、本來(lái)、「炊いた米」を意味する[i]。ざっと見(jiàn)れば、ただ普通の米だけど、その中は豊富なたんぱく質(zhì)を含む。そのほか脂質(zhì)、無(wú)機(jī)質(zhì)、ビタミンあるいは食物繊維の含量は少ない。
4?3 大豆製品 その次は大豆である。日本人はよく大豆製品を食べる。日本人は一人あたりの一日の大豆製品摂取量が100グラム以上である。日本には縄文時(shí)代に存在したと思われる大豆の出土例があり、「古事記」にも大豆の記録が記載されている。日本人は大豆製品に対してとても夢(mèng)中している。大豆製品はたくさんある。蒸した大豆を麹菌と耐塩性酵母で発酵させると醤油、味噌、また蒸した大豆を納豆菌で発酵させると納豆となる。熟した大豆を加水、浸漬、破砕、加熱したものを搾ると液體は豆乳、その殘りはおから、豆乳を溫めてラムスデン現(xiàn)象によって液面に形成される膜を湯葉、にがりを入れて塩析でタンパク質(zhì)を固めると豆腐、豆腐を揚(yáng)げると「油揚(yáng)げ」「厚揚(yáng)げ」、焼くと「焼き豆腐」、茹でで「湯豆腐」、凍らせて「凍み豆腐」となる。大豆にはサポニン等水溶性の低分子化合物やタンパク質(zhì)性のプロテアーゼ?インヒビターやアミラーゼ?インヒビターやレクチンなどの有毒成分が含まれており、これらの加工には有毒成分の除去や解毒の意味もある。 大豆は低カロリーで、しかも良質(zhì)の蛋白質(zhì)を含む等栄養(yǎng)価の高いものである。大豆は「畑の肉」とネーミングされた。それは、大豆が肉に匹敵する量の蛋白質(zhì)を含んでいることがわかったからである。この蛋白質(zhì)は、必須アミノ酸がバランスよく含まれた良質(zhì)なものである。また大豆には、脂質(zhì)、炭水化物、食物繊維、カリウム、カルシウム、マグネシウム、鉄、亜鉛、銅、ビタミンE、ビタミンB1、葉酸など様々な栄養(yǎng)素が含まれる。一方、大豆はコレステロールを全く含んでいない。このようなことから大豆は自然のバランス栄養(yǎng)食ともいうことができる。また、大豆には健康に役立つ成分が含まれるから、生活習(xí)慣病を予防できる。
4?4 魚(yú)介類 周知のとおり、日本は周?chē)欷¥藝欷蓼欷皮い氲乩淼奈恢盲藧{まれて、漁業(yè)の大國(guó)であるので、魚(yú)料理が多いのである。一番印象を殘れるのは刺身のである。日本料理は最も大きな特色は食品の新鮮度を重んじる。一番代表的な魚(yú)料理は刺身である。日本人は刺身が大好きである。日本で一番人気がある。刺身は新鮮な魚(yú)介類などの肉を、生のまま薄く切って醤油などをつけて食べる料理である。生食は非常に健康である。中國(guó)人は肉料理に対してよくしている。豚など耳や皮まで調(diào)理することができる。これは大陸國(guó)家と海洋國(guó)家の違いだと思うが、日本人は魚(yú)を知り盡くしている。日本の食卓では「魚(yú)離れない」と言われる。日本人の魚(yú)介類年間消費(fèi)量は1人あたり約66kgと言われている。日本人は好きな食用魚(yú)は秋刀魚(yú)をはじめ、鮪、鯛、鰻、鮭などたくさんある。魚(yú)は豊富な栄養(yǎng)を含まれる。
4?5 副菜 日本の副菜は大體旬の野菜、海藻や菌類のようなものである。海藻は豊富な微量元素が含まれる。菌類のカロリーが低いである。日本人は中國(guó)人のような野菜を油でいためてはない。彼らは歐米人のような生のまま食べて、あるいは、サラダと混ぜ合わせて食べる。
以上紹介した日本料理から見(jiàn)れば、油を使う場(chǎng)合はあまりない。魚(yú)にしても、中國(guó)のような油で炒めてはなく、よく生のまま食べる。日本料理は食材そのものの味わいをもっと重んじる。日本で「初物」と「旬物」という二つの言葉がある。日本人は「初物」を食べると長(zhǎng)壽できると思う。この風(fēng)潮はだんだん上層の貴族から民間に影響した[i]。だから、日本人は食材の新鮮度は非常に重んじる。日本料理はあっさりして、新鮮度も高いという特徴を持っている。 こんな日本料理は健康に対していい。共同通信(2006年4月7日)によると、世界保健機(jī)関(WHO)は、2006年版の「世界保健報(bào)告」を発表し、2004年世界192カ國(guó)の中で、平均壽命ランキングの第1位の國(guó)は日本であった。女性の86歳と男性の79歳で、最長(zhǎng)壽國(guó)と言われている。もちろん、長(zhǎng)壽の原因はいろいろがある。例えば、日本人は公衆(zhòng)衛(wèi)生に特に力を入れて、その環(huán)境が優(yōu)れているとか、スポーツが重視されているとか。しかし、最も重要なのは伝統(tǒng)的な飲食習(xí)慣と科學(xué)的な食材構(gòu)成と思う。
結(jié) 論www.628tf.com 以上はただ中國(guó)の「油料理」と日本の「水料理」について、簡(jiǎn)単に紹介したが、その違いの原因も簡(jiǎn)単に分析した。一番重要な原因はやはり自然條件の違いにあると思う。 日本の食文化は中國(guó)から伝わった食文化の上に日本の気候風(fēng)土の要素も考慮した先人たちの知恵によって作られたものである。その特有な地理環(huán)境は日本人の獨(dú)特な食文化を決定した。また、日本の四季と料理も深い関係がある。とりわけ、その季節(jié)だけに採(cǎi)れる食材を「旬」のものとして調(diào)理する技術(shù)が発達(dá)し、季節(jié)ごとの料理を楽しむことができる。中國(guó)にしても、中國(guó)の國(guó)情に合う料理を形成した。內(nèi)陸の面積は大きいから、海や川から得られる新鮮な食材は有限である。保存するために、食材を陰干する。それに、鮮度を戻すために、よく油で調(diào)理する。中國(guó)人は油料理が大好きということはなく、歴史の産物と言える。そのほか、中國(guó)國(guó)土の面積は大きいだけど、耕地面積は少ない。それに、中國(guó)の人口も多い。こんな面積に限りがある土に非常に大きな人口が食物に対しての需要を満足するために、主食を非常に重視してきたのである。普通、中國(guó)の歴史上よく人心をつかむ君主は、農(nóng)業(yè)の生産を重視する。 食物についての文化は人間の歴史のような長(zhǎng)い歴史を持っている。食文化は人間と密接な関係にある。食文化は永久に変わらない話題である。
謝 辭 卒業(yè)論文の指導(dǎo)教師として、雷國(guó)山先生がご多忙にもかかわらず、何回も精緻なご指導(dǎo)、ご添削をしていただいたおかげで、この卒論が順調(diào)に出來(lái)上がりました。また、大學(xué)時(shí)代に、私を見(jiàn)守ってくださった諸先生のご指導(dǎo)に心から感謝の意を表したいと思います。大変お世話になりました。 この場(chǎng)を借りて御禮を申し上げます。
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